当時の様子を語る
若い力の演技が初めて披露された第2回石川国体において、当時の記録や実際に演技された方などから当時の記憶を基にお話を伺うことができましたので、ご紹介します。(ご本人の記憶に基づくお話です)
勝尾信子先生に関する新聞記事の記録より(⑮)
勝尾信子先生は、稲場四郎先生とともに若い力の演技を創作されました。
当時は野町小学校に勤務され、国体当日は指揮台に立ち演技を指揮しました。
- 若い力の演技は、当初、男女別に創作したが、文部省の方の考えにより男女一本のものに改めた。
- 演技が完成してから国体開催まで20日しか期間がなかった。
- 各小学校代表児童を集め、野町小学校児童の演技を見せて代表児童に覚えてもらった。代表児童たちは2時間ほどで演技を習得してくれた。
- 当日の演技披露では、児童たちは元気いっぱいに入場し、力強く軽快にリズム的な動きを展開し、演技中、進駐軍席からは盛大な拍手が起こった。
石坂義信様(第2回石川国体で演技)
- クラスから10人が選ばれ、当時の担任であった勝尾信子先生と毎日夜遅くまで練習した。
- 勝尾先生と一緒に先生方の講習会や各小学校を廻って演技指導した。
- 開会式当日は、若い力の歌詞のごとく、歓喜あふれる気持ちで踊った。
- これからもこの演技が末永く受け継がれていくことを願っている。
伊藤外栄様(第2回石川国体で演技)
- 野町小学校で担任の勝尾先生と一緒に各小学校を廻って演技指導した。
- 授業も受けず、演技指導廻りに明け暮れていた。
- 金澤市運動場で、全体練習が2~3回あった。
- 当時は、レコードもなく、自分で歌いながら演技を練習した。
山下和子様(第2回石川国体で若い力の歌を合唱)
当時、小将町中学校一年生(当時の中学校は、高岡町中学校と小将町中学校の2校のみ)
※小将町中学校は50人のクラスが28クラス
戦後の混乱期でトイレもない教室も足りない、にわかごしらえの校舎に大人数の生徒が詰め込まれており、とても学業に重点を置くような状況ではなかった。
そんな中、降ってわいたような国体の開催決定。
急きょ、「若い力」の合唱のため、小将町中学校の生徒で合唱団を編成することになった。
各クラスから4~5名の生徒を選び、その中からさらに20名あまりの生徒が選抜され合唱団が編成された。
とにかくバタバタした状態での合唱団の編成であったので、どのような基準で選ばれたのかも全く分からなかった。
合唱団編成後は、楽譜一枚のみ渡されて、先生のピアノの演奏に合わせて何度も何度も練習した。
学業そっちのけで、毎日毎日午後からは合唱の練習をしていた。
日が迫り、金澤市運動場で合唱団とブラスバンド、若い力の演技の合同練習が2~3回行われた。
ブラスバンドは市立工業高校、若い力演技は全市立小学校の6年生であった。
そして、国体当日、天皇陛下は特に護衛などもなく、競技場内を歩いて来賓席についた。
合唱団は天皇陛下の席の最下段にあたりに位置し、マイクを何本か立てて歌声はスピーカーから流れた。
若い力演技の児童たちは、両手を広げて間隔を測り、合唱団の歌に合わせて演技した。
若い力の演技 全体練習会について
金沢市立小学校6年生の全児童による若い力の演技の予行練習は、昭和22年10月15日と18日の2回、金澤市運動場で行われました。
参加児童は、市内小学校37校 4,250名
若い力の音楽演奏は、金沢商業、金沢市立工業、小将町中学校の混成バンド
天皇陛下がご覧になるということで真剣に行われ、演技以外にも入場行進から50人85列に並ぶ演技隊形に開く練習も大変苦労されたようです。