金澤市運動場の誕生

喜悦と感激の満ちた金澤市設運動場開場式

  • 名 称 : 御成婚記念 金澤市運動場
  • 住 所 : 石川郡富樫村字地黄煎町地内
  • 開 場 : 大正14年10月31日(大正天皇 天長節)

金澤市運動場(現 金沢市営陸上競技場)は、皇太子殿下(後の昭和天皇)御成婚記念 金澤市運動場として大正14年10月31日に開場した歴史ある競技場です。


この競技場は、金沢市出身で大阪市在住の実業家 武田千代三郎氏によって構造調査と建設案が示され、金沢市役所第二課(土木担当)の藤沢勇太郎技師が設計しました。

武田氏の要望として、

  • 運動場は、トラック、フィールドの陸上競技専門の施設であること。
  • テニス、サッカー、ラグビー、野球などの球技施設は、別に建設すること。

とありましたが、資金面や運用面から陸上競技専門の施設ではなく、テニス、野球、バスケットボールもできる多目的なグラウンドとして建設されました。

開場記念絵葉書

金澤市運動場 開場式及び祝賀運動会

大正14年10月31日 土曜日、御成婚記念金澤市運動場の開場式及び祝賀運動会が実施されました。
当日は、前夜の豪雨が朝には明るくなり、式が始まる頃には青い秋空が広がる日本晴れの中で盛大に開場式は行われました。

■開場式 (⑯⑰)

午前10時30分開式、来賓、相良金沢市長、石川県知事、金沢市会議長など約500名が出席し、斎主(石浦神社神主)によるお祓いののち降神の詞の奏上、神饌のお供え、斎主による祝詞の奏上、玉串奉納、市長からの工事報告、祝辞、テープカットなどを行いました。

開場式では、この運動場の設計案を提案した武田千代三郎氏(当時、大阪高等商業学校長)が祝辞を述べました。北陸毎日新聞社は、その祝辞の内容について「スポーツ界の理論家として広く知られた識者だけに、運動場の新設に対し将来の希望はまさに傾聴に値するものが多かった」と評価しています。

開場式の後は、相良市長を先頭に来賓がグラウンドを一周し、簡単な洋食の饗宴が立食形式で行われ、最後には万歳三唱で締めくくられました。

■祝賀運動会 (⑯⑰)

10月31日の午後から11月1日にかけて、100m走、200m走、400m走、800m走、1500m走、走り高跳び、棒高跳び、やり投げ、ハードル走、砲丸投げ、円盤投げなどの陸上競技を行う運動会が実施されました。

日本初のアンツーカ陸上走路

昭和22年の第2回国民体育大会を機に主会場として整備されることとなりましたが、走路の舗装材に苦労することになったのです。

金沢市出身のオリンピック選手だった大島鎌吉氏がドイツから持ち帰った一握りのアンツーカをこの国体で競技場の走路材として採用したいとの意見がまとまり、分析した結果、国産化しようということになりました。

そして、大島氏の旧知であった石材関係の奥株式会社(現 奥アンツーカ株式会社)が研究試作にあたりました。

しかし、国体開催までの期限は限られており、その中でのアンツーカ開発には大変な苦労と困難があったとのことです。

材料の産地選定、蒸し焼き温度など試行錯誤を繰り返し、アンツーカが間に合わない場合はシンダーにするなどの代替案を準備しなければならないくらいに追い詰められていました。

そして、ついにドイツ製品と同等の品質のものができ、国体開催までに間に合わせることができました。

この、アンツーカを敷き詰めた走路をもつ陸上競技場は、金澤市運動場が日本初の競技場となりました。

大会前日の10月29日は豪雨でした。競技場のトラックは雨のためプールと化していました。

しかし、豪雨が明けた翌朝は晴天。

苦心のアンツーカにより、競技場走路には水たまりひとつありませんでした。(⑭674頁


金澤市運動場開場までの年表

大正13年 1月23日

市会は皇太子成婚記念事業として市立大運動場設置を満場一致で可決した。

予算は6万円、財源は3万円が前年度繰越金、3万円が一般寄付金。
運動場は敷地1万坪、トラック1周400m、普通観覧席の収容人数は1万人、特別観覧席1,000人の計画である。(⑤84頁

大正13年1月29日

市立運動場建設に対し、早くも石川郡三馬村字泉と石川郡富樫村字地黄煎町が誘致運動をはじめ、泉の方は市長に運動場設置の請願書を出した。(⑤84頁

大運動場ができることによって地区の発展につながるとの思いから、上記二地区以外にも泉野出、笠舞上ノ段、笠舞下ノ段、上野新の四地区が誘致活動を展開しました。(⑭430頁

大正13年6月22日

各方面から誘致運動がおこっている市の公設運動場は地黄煎町に決定した。(⑤86頁

最終的には、経費面のほか運動場までの取付道路の用地(現在の上有松交差点から運動場に至る全長260m)を無償で提供したいとの要望により、現在の位置に決定しました。(⑭431頁

また、武田氏からも、現在の位置が石川師範学校男子部付属小学校(現 泉中学校)の近くであり、交通の便もよく、学校がサブグラウンドとして使用できることから適地であるとの提案もあったそうです。

※地黄煎町・・・藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついたという。現在の泉野町4・6丁目、泉が丘1・2丁目あたり。(引用:いいね金沢ホームページ 歴史のまちしるべ標柱一覧より)

大正14年5月29日

金沢市の公設運動場工事の入札が行われ、入札人員33人中、山田菊太郎が1万3740円で落札した。(⑤94頁

大正14年10月25日

金澤市運動場 竣工

大正14年10月31日

皇太子御成婚記念 金澤市運動場の開場式が挙行された。広さ約1万坪、工費5万9896円(うち土地買収費2万1500円)(⑤99頁

昭和13年

北陸で初めての第3種公認競技場に認定。(⑬416頁

昭和22年10月24日

金沢市設競技場が第1種公認競技場に認定された。(⑤269頁

※第1種公認に必要なサブグラウンドがなかったため、泉丘高校グラウンドをサブグラウンドとして認めてもらい、国体期間中のみ第1種に公認された。

昭和22年10月30日~11月3日

第2回国民体育大会(石川国体)秋季大会開催

昭和23年8月2日

施設の名称を、御成婚記念金澤市運動場から「金澤市運動場」に改めた。

​昭和34年7月4日

金沢市体育施設条例の制定に伴い、施設の名称を金澤市運動場から「金沢市営陸上競技場」に改めた。

金沢市営陸上競技場 昭和5年と現在との地図比較

昭和5年(1930年)と現在との比較 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」((C)谷謙二)より