日本の戦後スポーツの原点とも言える大会
結核死亡率ワースト県からの脱却
1946年(昭和21年)に始まった「国民体育大会」は戦後、最も長い歴史を持つスポーツ大会です。
第1回大会は、戦災を免れた京都を中心とする近畿地区で開催されましたが、戦後直後ということで規模も小さく施設も十分ではありませんでした。
第2回石川国体から沖縄県を除く全都道府県の参加者が参加して開催されました。
当時の石川県は「結核」死亡率が全国一の結核ワースト県でした。
また、戦火を免れた石川県においても衛生環境の悪化や食糧難、人心の荒廃が深刻な問題でした。
そんな中、当時の金沢市長であった武谷甚太郎は、金沢市を全国随一の文化都市に飛躍させようと「文化都市建設構想」を打ち出しました。
その中に、「市設運動場を整備し国体誘致を行うこと」が事業構想としてありました。
武谷甚太郎市長は、金沢市出身のオリンピック選手だった大島鎌吉氏に第2回国体誘致の協力を依頼しました。そして、石川県、金沢市、経済界、競技団体が一丸となって国体誘致に取り組むことになりました。
国体の招致理由としては次のことが挙げられました。(⑦47頁)
①文化都市としての金沢市は、低調な北陸体育文化の高揚を図り、体育施設を充実したい。
②日本一の結核県としての不名誉を挽回し、県民の健康増進とその積極性の向上を図りたい。
③開催準備費として1,500万円準備する。
戦後間もない混乱期でもあり、国体誘致運動の展開と共に食糧難や民需用復興資材の浪費を理由に反対運動も起こりました。
しかし、武谷甚太郎市長の「金沢の「文化都市」構想の一環として、体育・スポーツ施設を充実させるとともに、敗戦による祖国再建に非戦災地の金沢・石川県が貢献すべきであるという強い信念」(⑦51頁)と関係者の尽力により石川国体は実現しました。
そして、この第2回石川国体の大成功により、これまで東京などの大都市でしか開催されなかった権威ある大会の地方開催の実現や各都道府県持ち回り制などその後の国体の運営の基礎となる大きな意味を持つ大会となり、石川県が残した功績は非常に大きなものであったと評価できます。
・開会式での天皇臨席と国旗掲揚・国歌斉唱
・権威ある大会の地方開催と各都道府県持ち回り制の始まり
・「若い力」と「大会マーク」の制定
・大会旗の制定と大会旗リレー
※大会旗リレーは、第3回福岡国体から始まりましたが、金沢市からスタートし1,038kmの距離を6,450人が繋いで福岡市まで届けました。
地方持ち回り制が実現したことにより、各開催県でのスポーツ施設整備や交通網が整い、気軽にスポーツを楽しめる環境が整いました。このことによって、日本全国にスポーツが身近なものとして浸透していったと言えます。
選手たちは「米」持参で大会参加
国体反対運動が起こった際に、理由のひとつとなった「食料難」については主食の米を選手各自が持参することで解決を狙いました。
副食物の野菜、魚類は夫々正規の機関を通じて特配を受け宿舎に配給した。」(①46頁)との記述があります。
大会標語に応募殺到
~なんと全国から2,910件の応募~
募集した大会標語は、全国から2,910件もの応募がありました。
<標語を募集するにあたってのテーマ>
「明朗にして民主主義的なスポーツマンシップを皷吹(こすい)せるもの」
※皷吹(こすい)・・・励まし、元気づけること。
石川県準備委員会が選定した大会標語は以下のとおりです。
◎体育だ熱だ力だ再建だ(石川県小松市 男性)
◎スポーツで明るく興せ新日本(大阪府大阪市 男性)
◎頑張るぞ日本の飛躍を体育で(石川県金沢市泉野町 男性)
◎擧(こぞ)つてスポーツ明るい日本(石川県能美市 男性)
◎スポーツに示せ日本の美と力(石川県小松市 男性)